ジョブズの名言

スティーブ・ジョブズ
アメリカの実業家、アップル社の共同創業者。
国: 米国
 生: 1955年2月24日
 没: 2011年10月5日(享年56歳)
1955年2月24日、シリア人留学生の父とアメリカ人大学院生の母との間に生まれる。母の父がシリア人との結婚を認めず、誕生以前から養子に出すことが決められ、スティーブはジョブズ夫妻に引き取られる。
ジョブズは13歳のときに、憧れのヒューレット・パッカード(HP)共同創業者ビル・ヒューレットの自宅に電話をかける。ジョブズが周波数カウンタの部品が欲しいとお願いすると、ビルは部品をくれたばかりか、夏休みのアルバイトにも誘ってくれた。
ジョブズが高校生のとき、HP社の夏季インターンシップスティーブ・ウォズニアック(ウォズ)と出会う。二人は性格も正反対だったが、すぐに意気投合した。
ジョブズオレゴン州の大学へ進学。大学時代は、ユダヤ教キリスト教イスラム教・アニミズム坐禅・食事・ヒッピー文化などに心酔し、裸足で校内を歩き、風呂にも入らない時期があった。大学には半年間通ったが、興味のない必修科目を履修することを嫌がり中退。その後もキャンパスを放浪し、コーラの空き瓶拾いや電子装置の修理で日銭を稼ぎながら、哲学やカリグラフィーなどの興味のあるクラスだけを聴講した。
ジョブズは導師を求めてインドを訪れたいと考え、旅費を捻出するために働くことを決心。1974年にアタリ社を訪問して「雇ってくれるまで帰らない」と宣言。アタリ創業者に気に入られたジョブズは、自給5ドルの下級エンジニアとして採用される。
1975年、アルテア8800という世界初の個人向けコンピュータが発売される。ウォズは、より安く、簡易な回路のコンピュータを作ることができると考え、半年で開発。HP社に商品化を持ち掛けるも断られたため、二人は自分たちで売り出すことを決意。製造したコンピュータをアップルと名付け、1976年「Apple I」を666.66ドルで販売開始。
1977年発売の「Apple Ⅱ」は大ヒット。1980年に株式公開を果たし、ジョブズは2億ドルを超える資産を手にする。
1984年にジョブズは「Macintosh」の発売を開始。しかし、需要予測を大幅に誤り、初めての赤字を計上。
https://bit.ly/2KCLmgY

イチローの名言

メジャーリーガー。メジャーリーグのシーズン最多安打記録や10年連続200安打など、多くの記録を更新している。
国: 日本
生: 1973年10月22日
1973年10月22日、愛知県西春日井郡豊山町に生まれる。二人兄弟の次男だったが、祖父「銀一」から「一」の文字を取り「一朗」と命名された。
小学校では地元の少年野球チームに所属。エースで4番として活躍し、6年生の時には全国大会に出場した。中学校ではエースで中軸を打ち、中学3年の時に全日本少年軟式野球大会に出場し3位入賞を果たす。学校での成績も優秀で、学年では常にトップ10に入っていた。
高校は愛工大名電に進学。名門野球部において1年時からレギュラーを獲得(三塁手)。2年時に夏の甲子園左翼手)、3年時に春の甲子園(投手)と2度甲子園に出場したものの、いずれも初戦敗退に終わっている。松井秀喜とはこの頃から練習試合を通じて面識があった。高校時代は投手だったが、交通事故による怪我が原因で投手から野手転向を余儀なくされた。
1991年、ドラフト4位でオリックス・ブルーウェーブに入団。1994年、新たに就任した仰木監督イチローを即座に一軍に呼び、1番打者として活躍。多くの記録を塗り替えていく。
2000年11月、シアトル・マリナーズと契約を結び、野手としては日本人初のメジャーリーガーとなった。日本人野手がメジャーで通用するのか疑問視する声が日米問わず多かったが、メジャーデビューの2001年、シーズン242安打を放ち、新人王、MVPなど多くのタイトルを獲得した。
2004年シーズンでは、ジョージ・シスラーのシーズン安打記録を5本上回る262安打でシーズン最多安打記録を更新。
2010年シーズンでは、10年連続200本安打を達成。10度のシーズン200安打はピート・ローズと並ぶメジャーリーグ史上1位タイ記録。
2012年7月、ニューヨーク・ヤンキースへ移籍。2013年シーズンでは、日米通算4000本安打を達成。
2015年1月、マイアミ・マーリンズへ移籍。2016年シーズンでは、日米通算でピート・ローズの持つメジャーリーグ最多安打記録(4256安打)を更新する。プロ野球における通算最多安打数の世界記録としてギネス記録に認定される。8月には史上30人目のMLB通算3000安打を達成。
https://bit.ly/2MC0gHd

【PDF冊子】ドストエフスキーの名言

小説家、思想家。トルストイツルゲーネフと並び、ロシアを代表する文豪。主な作品に『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』などがある。当時広まっていた理性万能主義(社会主義)思想に影響を受けた知識階級の暴力的な革命を否定し、キリスト教に基づく魂の救済を訴えている。

国: ロシア(モスクワ)
生: 1821年11月11日
没: 1881年2月9日(享年59歳)

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【PDF冊子】渋沢栄一の名言

武士(幕臣)、官僚、実業家。多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父と称される。ピーター・ドラッカーは「率直にいって私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は『責任』にほかならないということを見抜いていたのである」と述べている。

国: 日本
生: 1840年3月16日
没: 1931年11月11日(享年91歳)

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【PDF冊子】渋沢栄一の名言

武士(幕臣)、官僚、実業家。多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父と称される。ピーター・ドラッカーは「率直にいって私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は『責任』にほかならないということを見抜いていたのである」と述べている。

国: 日本
生: 1840年3月16日
没: 1931年11月11日(享年91歳)

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【PDF冊子】福沢諭吉の名言

日本の武士(中津藩士)、蘭学者啓蒙思想家、教育者、慶應義塾の創設者。近世の教育に功績ある明治六大教育家の一人とされる。

国: 日本・摂津国大坂堂島浜(現在の大阪市福島区福島)
生: 1835年1月10日
没: 1901年2月3日(享年66歳)
1835年1月10日、摂津国大坂堂島浜(現:大阪市福島区福島)に豊前国中津藩の下級藩士の次男として生まれる。
諭吉という名前は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことにちなむ。
1836年、父の死去により大坂から帰藩し、中津(現:大分県中津市)で過ごす。諭吉は当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっておらず、悪童まがいの溌剌とした子供だったという。
諭吉は5歳の頃から漢学と一刀流の手解きを受けはじめる。
1854年、19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ。黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶ際にはオランダ語の原典を読まなければならないがそれを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。
幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか40石の勝海舟らが登用されたことで、1858年、23歳の諭吉にも中津藩から江戸出府を命じられる。
諭吉は築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。この蘭学塾「一小家塾」が後の慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。
1859年、諭吉は日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜の見物に出かける。そこでは英語が用いられ、オランダ語がまったく通じないことに衝撃を受ける。英語の必要性を痛感した諭吉は、英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。
1859年、24歳の諭吉は、日米修好通商条約に伴い派遣された咸臨丸の艦長の従者として渡米する。咸臨丸の指揮官を務めた勝海舟とはうまくいかず、晩年まで険悪な関係が続いた。
1861年、26歳で中津藩士、土岐太郎八の次女と結婚。1862年には翻訳方として欧州各国の使節団に同行する。途上、香港で植民地主義帝国主義を目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。
1863年に帰国後、『西洋事情』などの著書を通じて啓蒙活動を開始。

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【PDF冊子】本田宗一郎の名言

日本の実業家、技術者、ホンダの創業者。
国: 日本(現在の浜松市天竜区
生: 1906年11月17日
没: 1991年8月5日(享年84歳)
1906年11月17日、静岡県磐田郡光明村(現:浜松市天竜区)の鍛冶屋の長男として生まれる。
1913年、6歳のときに尋常小学校(現:浜松市立光明小学校)に入学。在校中に自動車や飛行機を初めて見るなどの経験をする。
1919年、12歳で尋常高等小学校(現:浜松市立二俣小学校)に入学。
1922年、15歳で尋常高等小学校を卒業した宗一郎は、東京市本郷区湯島(現:東京都文京区湯島)の自動車修理工場「アート商会」に入社(丁稚奉公)。半年間は、社長の子供の子守りばかりであった。アート商会に6年勤務後の1928年、21歳の宗一郎はのれん分けのかたちで浜松市に支店を設立して独立。宗一郎だけが社長からのれん分けを許された。
1935年、28歳の宗一郎は結婚。本田宗一郎は自動車修理工場事業を順調に拡大するも、学問的な壁に突き当たり、1937年、30歳で現在の静岡大学工学部機械科の聴講生となり、3年間金属工学の研究に費やす。
1942年、宗一郎が35歳のときに長男が誕生。
1945年の 三河地震により工場が倒壊。所有していた会社の全株を豊田自動織機に売却して退社。38歳の宗一郎は「人間休業」と称して1年間の休養に入る。
1946年、宗一郎は浜松市本田技術研究所を設立。1948年には本田技研工業浜松市に設立。従業員20人でスタート。二輪車の研究を始める。
1949年にホンダの副社長となる藤沢武夫と出会い、二人は共にホンダを世界的な大企業に育て上げる。
1973年、66歳の宗一郎は本田技研工業の社長を退き、取締役最高顧問に就任。研究所所長は続けた。
1983年、76歳で取締役も退き、終身最高顧問となる。
1989年、宗一郎はアジア人初の米国自動車殿堂入りを果たす。
1991年8月5日、本田宗一郎は84年の生涯を閉じた。
亡くなる2日前、宗一郎は夫人に「自分を背負って歩いてくれ」といい、夫人は点滴の管をぶら下げた宗一郎を背負い病室の中を歩いた。そして「満足だった」という言葉を遺した。遺族からそのエピソードを聞いた親友の井深大ソニー創業者)は「これが本田宗一郎の本質であったか」と述べ涙したという。

https://item.fril.jp/ae57e03f69c1ce4c36e39ac377154b03